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小早川秀秋は、関ヶ原の後、筑前から備中岡山を褒賞として受け取ったが(元宇喜多秀家居城)、2年後の慶長七年(西暦1602年)「裏切り者」と言われる事に対して酒でまぎらわせていたが、それがもとで病に倒れた。
小早川家は跡継ぎがいなかった事から改易となり、秀秋は、その汚名だけを歴史に残した。死因は酒による肝臓障害と考えられているようだが、狂い死にしたとも言われている。
全く戦闘に参加しなかった毛利の軍勢は、軍師の吉川広家が家康に裏切りの旨を確約してあった為、戦闘終了後の引き上げの際も東軍に追撃を受ける事なく引き上げたが、長宗我部は、手柄を挙げ損なった東軍後詰めの山内、浅野等の追撃の的となったばかりか、関ヶ原後、直ちに改易となり、領地の土佐は戦後小山評定の一言で「山内一豊」のものとなり、長宗我部の遺臣達や「一領具足」と呼ばれた郷士達は、戦勝者として乗り込んで来た山内家の弾圧を受ける事になる。
また、毛利も追い討ちを受けなかったとは言え、西軍の総大将として輝元が大阪城にあった事から、軍師吉川広家の思惑と違い(広家は家康を勝たせたのは毛利だと考えていた)中国地方全土に近い100万石から、長門と周防2国の37万石へと減封となった。
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小早川秀秋

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豊臣秀吉の甥として生れ、裏切り者の汚名をきた小早川秀秋。戦国の世に翻弄されながら生き、死んで行った。
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