修羅の狼・蜘蛛の瞳
1998/ビスタサイズ
(98/6/13 V)
脚本・西山洋一,黒沢 清
撮影・田村正毅 照明・佐藤 譲
美術・丸尾知行 音楽・吉田 光
監督・黒沢 清
娘の誘拐殺人犯と思しき寺島進を殺害し、復讐を果たして生きる目的を失った哀川翔は、高校時代の同級生・ダンカンに誘われ殺し屋として再生してゆく。だが、特定の暴力団と結びこうとしたダンカンに対して、敵対する組織からの殺人指令が哀川に発せられる。
梗概は確かにアクション映画の骨法を遵守したものであるが、「復讐」シリーズがそうであったように、2本ワンセットシステムで撮影が行われるVシネマの場合、1本目は他人の脚本で比較的物わかりの良い顔を装っておいて、2本目では脚本に手を加えて自在に遊ぶというのが、近年の黒沢清の戦略であるらしい。
しかも、その時の遊びの部分、物語の整合性をあらぬ方向へねじ曲げようとする役柄をどちらも菅田俊が担っている点まで共通している。ここでは、ダンカン殺害を命じる右翼組織(?)のトップで化石採集マニアの老人を演じているのだが、この化石堀りというアイディアには律儀に意味づけがあって、一度死んだものが、形を変えて再生するというあり方が、復讐を果たして殺し屋として再生しようとしている哀川翔の姿にダブらせてあるわけだが、実際の演出にあたっては、そうした意味づけよりも、化石採集現場の地勢の効用に重きが置かれている。哀川翔が菅田俊を追って原野を走り回るシーンが、二人の判別もつかなくなるまでの大ロング、長廻しで捉えられたカットなど、前作「蛇の道」に比べればむしろアクションシーンは豊富に設定されているはずのこの物語の活劇としての枠組みから力任せの逃走を企てているかのように見えてくる。
しかし、この映画が前作「蛇の道」同様に奇妙なのは、活劇と怪奇映画が無理矢理同居させられている点であって、前作で真の意味で奇跡的な融合を果たしたこの2つのジャンルが、ここでは融合しないまま提示されているように思えることだ。まるで「CURE」をそのまま再現したように見える哀川翔の妻・中村久美の育む狂気や、哀川が垣間見る娘の幻影、白い影・・・
そうしたものたちが指し示すのは、一度終わったものが、形を変えて生き続けることの恐怖という命題に違いない。哀川が寺島に語って聞かせる落下傘を忘れて空中を自由落下する男の話、恐怖のあまり失神するが、気がついた時はまだ落下の途中だったという挿話が「CURE」の役所広司の姿そのものであったように、ここでは、一度死んだものは、死の恐怖を経て形を変えて生き返り、約束された死という安息さえ奪われた、いわば不死者の恐怖を生きることを余儀なくされる。結局、活劇からの逃走の果てに辿り着いたのは、吸血鬼やゾンビ、狼男といった映画史を彷徨う不死者の群に連なる不可知の地点であったことに改めて驚きを禁じ得ない。
ラスト近く、中村久美のお腹には死んだ娘の生まれ変わりとして新たな胎動が芽生え、日雇い労働の帰り道、哀川は殺害して河原に埋めたはずの寺島進が息を吹き返して車椅子に乗せられている姿を目撃する。アクション映画が因果律の無効を宣言され、活劇が”死劇”に転生する瞬間である。
黒沢清はおそらく世界の映画史でも類例をみない自覚的な恐怖の探求者であるにちがいない。しかもそれは、G・ロメロでもD・アルジェントでも、ましてやW・クレイブンでもなく、辛うじてR・コーマンに比肩されるべきだろう。(T・フーパーはどうなる?)そのことを、この「蛇の道」「蜘蛛の瞳」の連作がはっきりと宣言している。
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