学校の怪談f
1997/スタンダード/ビデオ
(97/7/20 TV)
「霊ビデオ」「保健室」
脚本・小中千昭 監督・中田秀夫
「廃校綺譚」
脚本・大久保智康、黒沢 清 監督・黒沢
清
撮影・喜久村徳章 照明・白石宏明
装飾・大町 力 音楽・羽毛田丈史
1994年に放映された、関西テレビ&宝塚映像制作による30分のテレビシリーズ「学校の怪談」は、映画版「学校の怪談」シリーズと異なり、今時珍しく”怪談”の意味に拘って真性のホラーを志向した奇特な番組で、宝塚映像のスタッフに加えて、脚本に小中千昭、監督には黒沢清(脚本も兼任)、小中和哉があたるという超強力な布陣で、極めて趣味的かつ、密度の高い作品が生み出された名番組であった。
「花子さん」(脚本&監督・黒沢清)も部分的に卓越したシーンがあり捨てがたいが、特に「あの子はだあれ?」(脚本&監督・黒沢清)は、馬渕英里何の本格的デビュー作としても記憶されるべき傑作で、高橋洋のいわゆる”小中理論”を中田秀夫に先駆けて黒沢清が完全に手中に収めていたことを実証する好例ともなっている。
馬渕の演技には未熟さが目立つものの、彼女につきまとい死へ誘う亡霊の出現の仕方には、「スウィートホーム」や「地獄の警備員」での演出上の試行錯誤を一気に完成の域に押し進めた確かな手応えがあり、完成度では後の「DOORV」すら上回っている。そして特筆すべきは、この作品に「女優霊」の先覚となっているシーンが含まれ、「リング」よりも怖いシーンが確実に紛れ込んでいることだ。シリーズの最終作となったこの作品は何故かビデオ化もされず、幻の傑作となっている。(多分、関西テレビで土曜日の昼間にでも再放送されるだろうが)
その後、スペシャル版として2話オムニバス形式の「学校の怪談R」(脚本・小中千昭、監督・安藤和久、小松隆志)が制作されたが、そのファイナルを飾る作品として、関西テレビが日本映画界最強の”ホラー者”スタッフを結集して望んだのが、この「学校の怪談f」である。
もっとも、高橋洋の名前が足りないのだが、おそらくスケジュールの都合等で脚本に参加できなかったのだろう。(そのかわり、黒沢清作品に俳優として出演している!)つまり、本作は純粋なテレビ特番であり、Vシネマではないのだが、おそらくいずれはビデオ化されることを見込んで、ここで紹介することにした。
「保健室」は他の2作を繋ぐインターミッションとして作られた掌編なのだが、小中千昭、中田秀夫の初顔合わせとなった「霊ビデオ」は、期待に違わぬ、”ホラー者”を唸らせる秀作である。
幽霊屋敷のウワサのある廃屋にビデオカメラを持ち込んで心霊ビデオを撮影しようとするテレビディレクター志望の女子高生(増田裕子)と、廃屋に邪悪な気配を感じて彼女に警告を発する幼なじみの同級生(馬渕英里何)を軸に、主人公の撮影してしまった心霊ビデオの”小中理論”による怪異描写がサスペンス豊かに綴られ、遂に主人公は唐突な死を遂げる。馬渕は残された彼女のビデオの中に、主人公が憑かれたように「霊を見たい」と語った真の理由を発見する。
クライマックスで二人の秘められた関係が明かされる抒情的なシーンに続いて、ラストの衝撃を用意するコントラストの巧みさは脚本の小中千昭の功績だが、実はこの場面の中田秀夫の演出には不備が残る。ラストに登場する”それ”は、観客を不意打ちにしながら単純なショッカーを上回る邪悪で奇怪なものであることが要求されるのだが、今回の演出は詰めを誤っている。
確かに特殊メイクやSFXの出来不出来に頼ったこけ威しを避け、できる限り単純な操作によって人体から日常性や人間性を剥離することで、人体を容易に人間以外のものに変異させることができるという”小中理論”以降の法則に忠実な演出ではあったのだが、そもそも中田秀夫は東大卒でにっかつ撮影所の演出助手出身(「ビー・バップ・ハイスクール」シリーズの助監督もやってた!)、しかもイギリスでジョセフ・ロージーのドキュメンタリーを制作していたという人だから、ホラー映画にはほとんど縁遠い存在で、監督デビューがテレビ朝日「本当にあった怖い話」(見たい!)であったという成り行きからはまりこんでしまった挙げ句、生粋のホラー者・高橋洋のレクチャーによって”小中理論”を会得させられたに相違ない人なので、こうした不徹底が起こるのだろう。今回は、おそらく編集作業に失敗しているのだ。
例えば、”小中理論”の確立に深く寄与した鶴田法男ならこうしたシーンを絶対に外さない。出ると分かっているにも関わらず、想像以上のものが、絶妙なタイミングで不意打ちに現れるのだ。しかもその技術が並外れているのは、単なるショッカー演出に堕していない点にある。そのことは「女優霊」や「リング」の亡霊の演出に多くの示唆を与えている「呪われた美女たち・悪霊怪談」(脚本・小中千昭)の4本目のエピソードのラストシーンに顕現している。
ただし、廃屋をドキュメンタルに映し出した一連のシーンに漲る濃厚な”気配”の演出には、中田秀夫が好むと好まざるとに関わらず、正統的な怪奇映画作家として成熟してしまったことを明らかにしている。激しく移動するビデオカメラのフレームの中にこの世のものでないなにものかの姿が、一瞬紛れ込む。これこそ、”小中理論”が心霊写真や心霊再現ドキュメンタリーから学び取った、”紛れ込む恐怖”の演出技法である。
一方「廃校綺譚」は前述の「あの子はだあれ?」の焼き直しとも言える素材で、廃校処分の決まった中学校で、数々の学校の怪談が現実化し、主人公の男子中学生を死の淵へ誘おうとする顛末が、これも”小中理論”と黒沢清独特の空間配置による”ベール”効果を実践した卓抜な演出で語られる。
理科室に現れるセーラー服の亡霊や、殺されてロッカーに入れられたと噂される女教師の亡霊が、窓ガラスやビニールカーテンといった、今や黒沢清の専売特許となってしまった”不透明な幕”の向こう側を徘徊する。
例えば往年の怪奇映画で、醜い容貌を隠すために薄いベールの向こうに姿を隠蔽しようとした怪物や怪物化しつつある人間達の演出の忠実な後継者として、古典的な演出手法にも見えるこの演出は前述の「あの子はだあれ?」の放送室のシーンのカーテンのかかったガラス窓や「DOORV」(脚本・小中千昭)のビニールカーテンでも明らかなように、手前の空間と奥の空間(”奥の院”と呼びたい)を不透明に遮断して、ある意味では、この世とあの世を、善と悪を、光と闇を、分断してみせながら、同時に映画のスクリーンの隠喩でもある特権的な舞台装置として、”奥の院”から空間の境界を浸食して攻撃を仕掛ける瞬間を宙づりにして見せることで、恐怖映画のサスペンスを批評的体験へと横滑りさせて見せる。
もちろん、ここでさらに重要な要素は、そうした幕の不透明さであり、”奥の院”を徘徊する影の動作の緩慢さにあることは言うまでもない。
黒沢清にとって、一連の恐怖映画と「勝手にしやがれ!!」シリーズを隔てる指標は、手前の空間と”奥の院”の間を仕切る不透明な境界の有無に尽きるのだろう。登場人物がその両空間を自在に行き来できるかどうかということと、その際の動作の緩慢さの相関関係によってその区別が規定されるようだ。